EXTRA:『贈与論』マルセル・モース

EXTRAについて

 本の指定者が3人のうちの誰かではなくて、「伴読部」である―ということです。

 前回(第6回)までで本の指定者が2巡し、またそれぞれの感想をアップしてきたわけですが、実は毎回その後があって、感想アップ後には「お互いの感想を読んだ感想」などを元に3人のあいだでメールのやりとりをいくらかしています。で、5回6回と回を重ねてゆくなかで、伴読部の輪郭もちょっと見えてきて、そこに今回の指定本『贈与論』も浮かびあがってきた。3人とも未読であると「判明」し、かつ、いずれ読みたい/読んでおこうと思っている本(積読本)ということだったので、「伴読部EXTRAみたいな感じで読んでみるのもいいかもしれませんね」というast15さんの発案。「EXTRAって響きになんか心くすぐられる…!」「じゃあ7月に差し込みましょう」。

 というわけでで今回はEXTRA。

「贈与論」

 今日の受け取り手は、明日は贈り手になる。

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

 お土産がわかりやすい。あれはべつに強制されているものじゃなく、買う買わないは本人の意思・判断に任されているものであって、つまり表面上は任意。けれども実のところ、お土産を買って帰ることは半ば義務である。以前誰かが自分に(もしくは自分の所属する場に)お土産を買って帰ってきてくれたというような前例があればこの義務の側面はなお強く働きかけてくるようになる。買わなくていっかなーと思っていても、買うかどうか迷わせ、買わずに帰ると(誰かに責められたわけでなくても)なんとなく後ろめたさを感じさせる。

 『贈与論』は、「なんでお土産を買うのだろうか?(そういうことになってるんだろう?)」という疑問を探る、そんな1冊。「贈与」にまつわる義務感はどこから来るのか、その精神的なメカニズムとは何なのか―これを“未開”と言われる社会に見られる「ポトラッチ」という慣行から探ってゆく(贈与による契約とはどんなものか?)。

 ちなみにポトラッチとは、クワキウトル族やハイダ族、トリンギット族といったアメリカ大陸北西部のインディアンのあいだに見られる贈与慣行のことである。冠婚葬祭のような儀礼的な機会に催された儀式や祭宴などで、主催者が招待客に大量の贈答品をばらまき、それを受けた招待客は、後日、さらに盛大な祭宴を催す。その際、受け取った贈答品に負けない立派なお返をしなければならず、あるいは、敵対関係にある場合などはもらった贈答品を焼いたり海に投げ捨てたりと、破壊する(「ポトラッチ」はチアヌーク語で「食べ物を与える」とか「消費する」とかいう意味だそうだ)。また、インディアンのあいだには「競争と敵対の原理」が強く働いており、ポトラッチの本質に注目するならば、それは「贈与」にある。
 
 モースは『贈与論』を、ポリネシアメラネシアなど南洋諸島の調査・研究による考察から始める。そっくりポトラッチ、ではないものの、クラ交易をはじめ、ポトラッチの基本的な要素の見出される慣行がこの地域・民族にも広く見られるのだという―というよりも、南洋諸島を考察することで「贈与」という行為の意味がより明確になってくると言った方が正しいかもしれない。南洋諸島とインディアンの贈与の話が、前半、第1章と第2章で行なわれる。ここまでで「贈与とは何か」がほぼ説明されていると言っていい。後半、第3章と第4章では、前半で見てきた「贈与」は、実は、ヒンドゥーや中国、ゲルマンにも見られるし、というか現代社会にも見られる…?と展開してゆく。

 さて、「贈与」という言葉が当てられているものの、「表向きは任意、実は義務」である。あるいは、たとえば、そこには「3つの義務」があるという。「贈り物を与える」義務と「贈り物を受け取る」義務、そして「お返しをする」義務。この「贈与」「受領」「返却(反対給付)」は三位一体で、不可分の関係にある。やや長いけれど、本書で紹介されていた、マオリ族のインフォーマント(情報提供者)であるタマティ・ラナイピリ氏の「ハウの話」を引用します。

ハウは吹いている風ではありません。仮にあなたがある品(タオンガ)を所有していて、それを私にくれたとしましょう。あなたはそれを代価なしにくれたとします。私たちはそれを売買したのではありません。そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そして、その人はお返し(ウトゥ)として、何かの品(タオンガ)を私にくれます。ところで、彼が私にくれたタオンガは、私が始めにあなたから貰い、次いで私が彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。(あなたのところから来た)タオンガによって私が(彼から)受け取ったタオンガを、私はあなたにお返しをしなければなりません。私としましては、これらのタオンガが望ましいものであっても、望ましくないものであっても、それをしまっておくのは正しいとは言えません。私はそれをあなたにお返ししなければならないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この二つ目のタオンガを持ち続けると、私には何か悪いことが起こり、死ぬことになるでしょう。このようなものがハウ、個人の所有物のハウ、森のハウなのです。

 「タオンガ(ないし個人的な所持品)は、霊的な力としてのハウを持っている」「贈り物には元の所有者の一部が宿っており、それは受け取り手に影響力をもつ」ということだ。この感覚は、なんとなく、でもけっこうわかるものがある。

 『贈与論』に日本への言及はとくに見られないけれど、たとえば九十九神なんかは、ハウと同じか、それに近い認識の変形態という側面ももしかしたらあったかもしれない。税や教育、「ありがた迷惑」や「タダより高いものはない」、ハンムラビ法典、サンタクロース、ボランティア活動(慈善と偽善のちがい)、はてなスター、あるいはこの伴読部も「指定した本を指定者が他の2人の分も購入して読ませる」という形式にしたらどーなるだろうか…?等々、読中、いろいろと連想・空想が働いた。冒頭のお土産もその1つである。

 こうした思いつきは真面目に思い巡らせてみたものもあれば遊び半分のものもあるけれど、以下は、いわば「空想的贈与論」みたいなものです。


 試みに、ラナイピリ氏の話を三次元的ではなくて、四次元的に考えてみよう。仮におれが娘をもつ身だったとして、娘から何かを得たとする。そして、そこには祖父か母のタオンガ、ないしハウがあったとする。するとおれは、祖父あるいは祖父の娘である母にそれを返さなければならない(母もまた祖父に返さなければならない)。が、「親孝行したいときに親はなし」と言うように、これはうまくいかないケースが昔から多かったらしい。もしおれが返す前に祖父も母も亡くなってしまっていたとしたら、もほや本来の持ち主に返すことのできないハウをおれは一体どうしたらいいのだろう…?

 「子孫のため」「未来の世代のため」と言ったところが説得力のほどはそれほど望めない、土を守る“動機付け”としての作用は期待しがたい、そのように思えてしかたない…けれども、ならば子孫の存在は無視してよいのだろうか…答えに窮してしまう。
 ただ、土の問題は、やはり重い。この重さには、いま生きている自分たちがこれから先ちゃんと食べていけるかどうかといった点はもちろん、子孫とか未来の世代とかの存在があることも1つ、あるような気がする。

 これは、以前書いた『土の文明史』のエントリーからの抜粋である。あの本を読んでて「子孫に負っている義務を忘れてはならない」「将来の世代の利益に大きな問題が起こる」「未来の世代のために繁栄の基礎を保つには」といった警句に、いまの時代、どれほどの意味や効果があるんだろうか?という疑問ないし違和感を抱いたのだった。反面、こうした警句はやっぱり、何かを言い当ててもいるのだろうとも思ったのだった。

 言い当てているというより、言い表しているのかもしれない。人々の内に潜む「贈与の3つの義務」—とりわけ「お返しの義務」—を。(このような「義務」も人の心理に“かたち”を与えたものではないか、という見方はひとまず措く。)

 誰一人として例外なく人は他人に生かされている。ただし、ここに言う他人とは、よく言うように日常生活における友人や家族といった身近な存在というよりは、むしろ死者―これまでに生まれ、死んでいった数え切れない人々のことである。たとえば、食べ物。お米でもパンでもお好み焼きでも、あるいはカップヌードルでも、すべてそうだ。数千年数万年前の人々がいま現在のおれたちのことまで考えて農耕を営み、子に伝えた―とまではちょっと言えないけれど、『栽培植物と農耕の起源』のエントリーにも書いたように、いまある多種多様な食物・作物はすべて、最初からその姿だったわけじゃない。土と先祖たちの汗の賜物であり―以下、「土=自然による贈与」については話が散らかるのでここではひとまず措きます―おれたちは先祖たちの汗と血による贈与を日々受け取っている。

 言い換えると、おれたちは先祖のタオンガ、ないしハウをさまざまなかたちで受領している。

 先に引用したラナイピリ氏の話で注目したい点が2つある。贈与関係が生じるのは一対一のときに限った話ではない、という点(ちなみに贈与契約については、個人単位というより、部族―クラン―といった共同体単位で行なわれるものだという)。第3者・第4者と現れてはじめて生じる場合も多々あるらしい。もう1つ、「タオンガが望ましいものであっても、望ましくないものであっても、それをしまっておくのは正しいとは言えません」という点も押さえて、頭の片隅に置いておきたい。

 もしかしたらそれと知らずに、人は自分の子供をはじめとした次世代や未来の世代に、返却不能に陥った先祖のハウを渡し続けてきたのではないか(以前は「死者」とも贈与関係を結んでいたとはいえ)。一方、ハウは世代を経るごとに増してきたし、増してゆくものだろう―エントロピーが増大するように。後の世代に贈っているのは1人や2人のハウではなく、顔を見たことはなくても血の繋がっている先祖たち、もしくは作物を通して受け取った血の繋がらない先祖たちと、無数のハウであって、とても贈りきれない(返しきれない)。

 「地球のため」という文句をここで思い合わせてみる。あれには「〜のため」という言い回しに含まれる偽善性と説得性がよく出ていると個人的には思う。自然への奉仕や援けと見せかけて、その実、守りたいのは、自分たちが生きることのできる(いまの暮らしを維持できる)地球環境に他ならない。だから、まずもって自分たちのためにやるべき/やらないとマズいことというのが事実のはずだが、反面、こういう奉仕的/義務的な要請に応えようというとき、人は「誰か/何かのためだ」と考えたほうが意欲もでやすいし動きやすくもなるのだと思う。

 「子孫のため」「未来の世代のため」という文句もほぼ同じことかもしれない―半分は字句通りホント、半分はウソではないかと。人は子孫に対して贈与の義務があると同時に、自分たちが自分たちより前の世代から受け取り、しかし果たすことの叶わないハウによる反対給付の義務を、「子孫/未来の世代への贈与」というかたちで仮にでも果たそうとする。自分たちになにか悪い事態が起こってしまう。たとえ返しきれなくても、贈らずには済ませられないと。

 ハウによって人は、親をはじめとした自分より前の人々・世代に恩を感じて、感謝もすれば、あるいは負債感を感じたり、ときに恨み・憎しみといった負の感情を抱いたりもする。一方でまた、「世代間贈与」には厄介払いのような側面もあるため、こうした感情は子孫/未来の世代に対したときには後ろめたさにもなる―あるいは、だからこそ、後世にはできるだけ「望ましいかたち」で贈与を行なおうと人は模索する…その意思が生まれうるのかもしれない。


 とまれ、『贈与論』は、読む前に思っていたよりもずっと現在形にある1冊だった。


プリペアードピアノの遊奏 Hauschka『Salon Des Amateurs』

 
 3ケ月ほど前、最寄のタワレコのこじんまりとした「音響系」コーナーの棚を眺めていたとき、タイトルに目が留まって棚から引き出し、ジャケットを見てみて、確信、その場で購入した。ジャケ買い。間違じゃなかった。

 これだ!

Salon Des Amateurs

Salon Des Amateurs

 買ったその日に早速聴いてからというもの、何度も繰り返し聴いている。まったく飽きが来ない。反復を基調としている点ではミニマルと言えるのかもしれないけれど、最小限の音でシンプルに…かというと、ちょっとちがって、わかる範囲で言えば、チェロ、ヴァイオリン、トロンボーン、ドラム、さりげなく電子音と、いろんな音が参加してきて、音の微粒子が弾み、転び、遊び、空間に満ちる。オーガニックな感じが良い。釣られてこちらの身体もうごきだす。聴けば聴くほど楽しい。

★リード曲「Radar」

 どうやらプリペアードピアノという、弦に細工―ゴムやフォークを挟んだり、ピンポン玉を貼り付けたり、フリスク載っけたり―を施した、打楽器的な響きともなる特殊なピアノの音らしい。数日前になってはじめてこの楽器を演奏している様子を動画で観たのだが、1つのピアノでここまでか!?と驚くほど様々な音色が溢れてくる。「いろいろな音が聞こえてくる」→「いろいろな楽器がそこにはある」と単純な図式を思い描きがちなおれとしては、目が点だった。先述した「いろんな音が参加して」の「いろんな音」とは、実際には、大部分がこの楽器の音色なのかもしれない。

★プリペアードピアノ演奏の様子(Hauschka本人)

 ちなみに、Hauschkaは「ハウシュカ」と読む。ドイツのピアノ奏者・作曲家であり、すなわちアルバムのタイトルはドイツ語—「ザロン・ダス・アマチュア」と読む。

第6回:『メモリー・ウォール』アンソニー・ドーア

 記憶のあるところ。あるいはノスタルジーについて。

メモリー・ウォール (新潮クレスト・ブックス)

メモリー・ウォール (新潮クレスト・ブックス)

 ケープタウンを舞台にした表題作をはじめ、ワイオミング州、アイダホと韓国の米軍駐屯地、中国のとある寒村、リトアニアハンブルクオハイオ州と場所はさまざま、登場人物も老若男女と異なれば、時代も一様ではない。それでいて一つひとつに体温があって、息遣いがあって、深みもある。粒ぞろいの短篇集だ。

 ドーアの筆が紡ぎだす物語は、読者に、言葉ではちょっと表しがたい感慨を与える…この短篇集に罪なところがあるとすれば、読者の感想が似たり寄ったりになってしまうことかもしれない。検索して出てくるレビューや感想をざっと眺めてみたところ、どれも共感し、頷けるものであることはたしかだが、ぶっちゃけ、おもしろくはない。おれも読後感をふつうに書いたらやはり変わり映えのしないものになってしまいそうであって、それなら、わざわざ書く必要などない。だから、『メモリー・ウォール』の感想としてはやや野暮の気があることは承知の上で、ちょっと分析的に、書いておくのも一興かなと思うことを、つらつら書いてゆきます。


 全編を貫くキーワードは、記憶である。

 「記憶」という言葉と重なりながらも微妙にニュアンスのちがう言葉に、「思い出」がある。「記憶」と「思い出」ではなにがちがうのか。たぶん、懐かしいという感情―ノスタルジーのあるなし、もしくはそれを含む量如何がひとつ、挙げられるように思う。加えて思うに、ノスタルジーは「記憶」と「思い出」とを分けるだけではない。

 「懐かしい」という感情がわかるかわからないかで、人は、大人と子どもに分かれる。

 そう思ったのは、公開当時アニメーション枠を越えて話題を呼んだクレヨンしんちゃんの劇場映画『オトナ帝国の逆襲』を2、3年前に再鑑賞したときだった。ほとんど10年ぶりに再鑑賞にした。涙ちょちょぎれ。いま思うとこれが21世紀の最初の年に公開されたというのはなかなか意味深長であったのだなあ、などと鑑賞後に思いながら余韻にふるふるしていたとき、ふいに、ある疑問が過ぎったのだった。

 「これを観て、子どもは…泣くのか?おもしろいのか?」―クレヨンしんちゃんは、原作は青年漫画だが、アニメは子ども向けとして製作され、ゆえに劇場映画は親子で観るファミリー向けとされる。アニメ版しんちゃんは第一に、あくまで「子ども向け」であって、だからこそDVDの宣伝時には「大人の鑑賞にも堪え得る」感動作であると阿部寛は強調したのだ…しかし、おそらく、「子どもの鑑賞には堪え得ない」。『オトナ帝国の逆襲』は映画としては良作と言えても、「子供向け」としては、出来不出来以前に「過去≒ノスタルジー」という主眼ゆえに実は失格だった…かもしれない。

 とりあえず、しんちゃんのギャグが冴えない。作中に充満する昭和感―時代の違いを前にしんちゃんのギャグがギャグになれないという事態が出来している。笑えないクレヨンしんちゃんを子どもはおもしろいと感じるのだろうか。あるいは、父・ひろしの心の葛藤―抗いがたいほどに過去へ誘われる心と、家族のいる/家族と築く未来へ進もうとする心の衝突―など、理解できないだろうと思う。なにより、子どもはこの映画を観たところできっと泣きはしないだろう。

 なぜなら、子どもにノスタルジーという心の動きはわからない。

 ノスタルジーがわからないから、しんちゃんをはじめとした子ども達は、秘密結社イエスタデイ・ワンスモアの散布する「懐かしいにおい」に誘われない。大人だけが洗脳され、町から姿を消し、「20世紀博」に向かう―ここでおれの目についたのは、埼玉紅さそり隊(女子高生の不良グループ)の動向だった。彼女たちも20世紀博へ吸い寄せられている…つまり、「大人」として扱かわれていた。懐かしいという感情がわかればもう大人と言ってよいということかと、おれは解釈した。

 『オトナ帝国の逆襲』での解釈を、もう1つ。記憶や思い出はにおいを媒介にして甦ることが多々ある。その逆パターンというか、父・ひろしと母・みさえは、ひろしの臭い足のにおいによって過去から現在に戻ってくる。そして「オトナ帝国化計画」を止めるため黒幕“ケンちゃんチャコちゃん”の元へ家族4人で向かうのだが、途中、懐かしい街並みや人々の生活の様子に心を誘われ、目を覚まし、また誘われ、正気に戻り…と幾度か繰り返し、しまいにひろしは涙が止まらなくなって、思わず叫ぶ―「なんだってここはこんなに懐かしいんだよ…!ちくちょう!懐かしすぎて頭がおかしくなりそうだぜ(泣)」

 なるほど、過度の懐かしさ―ノスタルジーは人の頭をおかしくしてしまいかねないのか。などと感心した。反面、この点ついては、腑に落ちるものも多分にあった。たとえば『ALWAYS 三丁目の夕日』が、1作目はいいとして、2作目3作目と製作され興行成績もなかなか好調だったらしいことに垣間見えている気もするのだが(あの映画の続編2つはそれこそ「20世紀博」だ、とか言いたくなる)、ノスタルジーにはある種、麻薬に似た依存性があるのかもしれない。

伝えられる話では、老人ホームで長く暮らす人たちは記憶装置を麻薬のように用い、さんざんいじって古びた同じカートリッジを遠隔装置に挿入するという。婚礼の夜、春の午後、岬のサイクリング。小さな四角いプラスチックは、老いた指に執拗に触れられてつやつやと光る。

(アルマは)黙ったままアームチェアに沈みこみ、遠隔装置のヘッドギアを頭のポートにねじで留め、ときおり口からよだれの筋が漏れる。

 共に表題作「メモリー・ウォール」からの引用。「記憶装置」とは、人間の脳から記憶を取り出してカートリッジに保存し、いつでも再生できる機器のことで、この短篇については近未来(2024年らしい)が舞台となっている。SFっぽいが、SFとは言い切れなくて、あるいはこのSFガジェットの使い方とその効果はヴォネガットを彷彿とさせるものがある。

 今回『メモリー・ウォール』を読んだのを機に、目はつけていたもののなんだかんだと後回しになっていたドーアのデビュー作『シェル・コレクター』も手に取った。これもまた、一読して忘れがたい短編集だった。表題作「貝を集める人」からして舌を巻く。

シェル・コレクター (新潮クレスト・ブックス)

シェル・コレクター (新潮クレスト・ブックス)

 たとえば(ドーアへの言及ではほぼ必ず触れられるように)自然描写の腕が、ちょっと並じゃない。この巧みさ、細やかさは、小手先の技術だけでどうにかなるレベルではなくて、書き手の自然に対する肌感覚に裏打ちされているからこその豊かさ、美しさ、静謐さなのだろう…自然の、人間からすると冷淡とも無慈悲とも思える側面や、解読不能性などを切り捨てず、なお素晴らしいと心打たれる眼差し。ここにはまた、自身の筆に妥協や誤魔化しを許さないという意思もある。

 この自然に対する眼差しと意思は、記憶に対するそれにも重なっているように思う。収録されている6作はそれぞれに生殖医療やダム問題などを中心に据えられたものでもあって、独立した作品として成立すると同時に、短篇集として見ると「記憶」というキーワードが中心となってくる。そうしたなか、ドーアの目は「記憶に浸る」ことに伴う負の面も見逃してはいない。たとえば、他人の記憶を読み取り続ける「記憶読み取り人」の寿命はわずか2年ほどと短い。あるいは先の引用部からも窺えるように、ノスタルジーを慎重に避けている節もある。言ってしまえば、ノスタルジーに溺れていないからこそ、この短篇集には多くの読者の深いところに届くものがあるのだと思う。

 では、具体的にはどのように回避しているのか―ひとつ、「現在形」による記述にあると見た!

 なんて、したり顔で書いたけれど、べつにおれが言わなくても読めば誰でも気づくことであって、全編通して現在形で記述されている。「メモリー・ウォール」でルヴォがアルマの記憶を追体験するときも、「来世」でエスターのハンブルク時代が展開してゆくときも、過去形ではなく、現在形で進行してゆく(「生殖せよ、発生せよ」におけるイモジーンのモロッコの記憶が過去形なのは意味深?)。「ネムナス川」でアリソンとジーおじいちゃんが外国語を口にする際に「過去形にすべきときに、現在形で言ってしまう」学習段階であることはちょっと象徴的な点かもしれない。

 「過去」にあるノスタルジーではなく、「現在」にあるリアルさ。この短篇集については「読者はルヴォ」だと言っていい。それにしても、現在形で貫くとはなかなか豪腕である。ドーアが現在形を採用したのにはいま書いたような効果やノスタルジーの回避という意図もあったのではないかと思われるけれど、それ以上に、著者の記憶観とでも呼ぶべきものの現われでもあるかもしれない。

 そう解釈したのには、いまひとつ理由がある。太字で「記憶は細胞内部ではなく、細胞外の空間に存在します」という一説が出てくるのだが、ドーアの短篇では、それぞれに、それぞれの「記憶の形態(記憶を宿すモノ)」の姿がある。化石、有性細胞、植物の種、とある場所、暮らしていた家、写真に写っている魚、絵…アルマは最後の場面で石膏に手形を残す。アルマの夫・ハロルドがアマチュア化石ハンターであることや、「一一三号村」の種屋の女が種屋であることはもちろん、ジーおじいちゃんが墓石職人であることも偶然ではないだろう。これら「記憶を宿すモノ」は、登場人物たちの前に“今”(もしくは“今あるもの”として)あることによって、はじめて、その記憶が開かれてゆく。

 記憶や思い出の中身は、たしかに過去である。しかし、その人にあって記憶が意味をもつとか、あるいは導きとなるときとは、“今”にほかならない。

 この点、先の「ノスタルジーがわかるかわからないかで大人と子どもに分かれる(ノスタルジーとは大人の特権的な感情である)」というのを思い合わせてみると、アリソンと「メモリー・ウォール」のルヴォ、この2人は他の短編の登場人物たちと並べてやや特異な存在かもしれない。記憶を“過去”とするには(「思い出」とするには)微妙な年齢にある。アリソンの心の傷はだから、恋しさを誘いはしても、懐かしさにはなれず、「大きな悲しみ」として刻まれてしまうことになった―そして、祈り、というかたちをとることになったのかもしれない。

 ルヴォの場合は、「記憶読み取り人」であるがゆえに、若くしてすでに晩年にある―アリソンに比して自身そのものがすでに記憶に近い存在になってしまっている。他人の記憶によって命を縮められたルヴォは、ふつうの人であれば(果たせても)何十年かかけてやっとできるかできないかだろうことを、同じ他人の記憶によって濃縮された時間のなかで行なう―ハロルドに出会い、その意思を更新し、その結果をフェコの息子へ残す。

ひとつの記憶を何度も十分に思い出せば、とルヴォは考える。もしかしたらその記憶が前のものに取って代わるかもしれない。もしかしたら記憶はふたたび新しくなるのかもしれない。

毎時間、毎時間、とロバートは考える。地球のあらゆる場所で、果てしない数の記憶が消え、光り輝く地図が墓へ引きずりこまれる。けれども、その同じ時間に、子どもたちが動きまわり、彼らにとってはまったく新しい領域を調査する。子どもたちは暗闇を押し戻す。記憶をパンくずのようにまき散らして進む。世界は作り直される。

(「来世」)

 記憶が新しくなるとき、子どもの姿がある(ハロルドの言葉を思い合わせれば、「祖先の子ども」である大人も含めうる、などと解釈しても間違いにはならないかもしれない)。この短篇集では、子どもたちは「記憶を受け継ぐ者」というような受動的な存在というよりも、ルヴォのように、「記憶を伝達する者」ないし「発見する者」「更新する者」としてそこにいる。


 で、本当はこのあと、「メモリー・ウォール」でキーワード然としているスティーブンスンの『宝島』―中島敦絡みで以前から一度は読んでみようと思っていたこともあってこの機にこれも読んでみたところ、思いのほか引き込まれて、いろいろと気づきもあったので書こうかと思っていたものの、すでに一興を通り過ぎて興醒めの域に踏み込んでしまっている気がする(そもそも『オトナ帝国』に言及した時点で早速脱線、直行していたけれど)。ま、いっか。1つ2つちょろっと書いて、このへんでおしまいにします。

 たぶん、この短篇集の収録作は、収録順に書かれたものと推測する。というのは、途中で気がついたことに、「ネムナス川」ではその前にある「一一三号村」ためか、アリソンは「大きな悲しみ」にダムの比喩を使う。次の「来世」では、「ネムナス川」にある「光を吸って、色を吐く」をべつの表現でローゼンハウム医師の夫人が口にする…といってたまたまかもしれないし、他の短篇間でも符号があるかどうかわざわざ確認していないので実際にはどうだかわからないけれど、仮にこの推測が正しいとして、では、はじめの「メモリー・ウォール」の前には何があったのだろうか。

 『宝島』である。

 「メモリー・ウォール」は『宝島』を下敷きとした―換骨奪胎した短篇だろう。宝島の地図はアルマの記憶、フリント船長のお宝はゴルゴノプス・ロンギフロンスの化石、ルヴォは、『宝島』の主人公ジムの生まれ変わりだったのだ。


第5回:『ヴァギナ』キャサリン・ブラックリッジ

 
 目を逸らすなかれ。

ヴァギナ 女性器の文化史 (河出文庫)

ヴァギナ 女性器の文化史 (河出文庫)

 これでもか!というくらい、ヴァギナである。神話や伝承、民俗学、宗教にはじまり、文化人類学、彫刻、壁画、言語学、哺乳類や昆虫の生態等を視野に入れつつ、生物学、医学、解剖学、生理学と広角的・多角的にアプローチし、偏見や固定観念、妄念に歪められたヴァギナの姿を描きなおしてみせる。個人的には、前半部の文化面からのアプローチよりも、科学的な面から展開する後半部が興味深く読んだ。

 まずはじめに、本書で明かされるヴァギナの姿の例をいくらか並べてみよう―文化面では、先史時代を眺めてみると、ペニス信仰よりも数千年早くヴァギナ信仰が起こったことが窺われるという。中世までは魔除け(厄除け)や生殖力の増進(豊穣・多産)、あるいは、誕生や再生(復活)の象徴だった。言葉にもそれは表れており、たとえばヒンドゥー語でヨニとは「子宮」「起源」「源泉」という意味をもつ(ちなみに「ヴァギナ」は「鞘」という意)。ときには神として扱われた。三角形はヴァギナのシンボルだった。ハートマークの由来はヴァギナではないかという説がある。

 科学面では、ヴァギナはペニスを裏返しなどではなく、また、クリトリスはペニスの残存物でも相同器官でもなくてむしろ「男性にもクリトリスがある」と言ったほうが正しいことが明かされる。クリトリスはλ(ラムダ)型というよりY字型で、ふつうクリトリスと呼んでいる箇所は全体の一端にすぎない(実体はデカい)。あるいは、鼻と生殖器は形態も構造も似通っているが、古くから言われているように、嗅覚と性にも密接な関係がある(嗅覚はもっとも原初的な感覚のひとつである)。そして、生殖において支配力・主導権を持つのはヴァギナなのだ。

 このように多様な姿を図や説明によって具体的に示されることで事実、驚嘆したり感心したりで忙しかった。が、同時に、「やっぱりそうだったか」と腑に落ちる感を覚えたりもした。どこかで予感していた。思うにこれは、おれだけでなく、おれと同年代(20代)では男女問わず似たような感想を抱く人は少ないかもしれない。つまり、ヴァギナ観が「一変」したり「ひっくり返る」というような衝撃は実はないのではないかと思う(…さてどうだろう。なむさんとast15さんの感想は以下のリンク先)


 逆に「人間の原型は女性」「男は女の派生」いう認識がなぜだかある。なぜそういう認識をもつようになったのかは定かでないものの、ここ10〜20年の小説を省みると、子宮やヴァギナの隠喩や暗喩、描写だと思われる場面を時折目にしてきた。すぐに思い浮かぶものだと多和田葉子の『飛魂』とか、莫言の『転生夢幻』とか。アニメなら『となりのトトロ』にだってそうと解釈できる場面があるにはある。もしくは、ヴァギナがひとつの世界観にまでなっているものまであって、酒見賢一の『後宮小説』がある。

後宮小説 (新潮文庫)

後宮小説 (新潮文庫)

 舞台は17世紀初頭、素乾朝末期の後宮(江戸時代で言う大奥)。この王朝の後宮は帝の閨たるただの後宮ではなく哲学的に裏付けられたものであり、宮女候補がはじめに通るトンネル「たると」は「産道」を模したもの、後宮は「子宮」とされ、また後宮哲学の構築に尽力すること大だった角先生は「真実は子宮から生まれる」という持論の持ち主である。歴史叙述的文体が妙なる小説(ところで反乱を起こした理由が暇つぶしとはひどい笑)。

 さて、『後宮小説』が第1回日本ファンタジーノベル大賞を受賞したのは1989年。20年前にすでにこういう小説がけろっと出てきたくらいであって、その後「男性優位」がことさら叫ばれたりということもなかったように思うので、著者が示したり主張したりするヴァギナ像を受け入れる素地は準備されていたのかもしれない(もしくは、いわゆる「東洋的」なヴァギナ観が脈々と受け継がれているのか?)。一方で、著者には女性礼賛過多のきらいがややあるように思ったけれど…パフォーマンスだろうか。彼女のアンバランスな態度は実際、社会通念に照らせばバランスを取れるものなのかもしれない。


 本書の本願は、「装飾性を除けたヴァギナの全体像を提供してみせること」―歪んだヴァギナ観を一新することにある。これが第一。ひいてはもう1つ、著者が端々で力を込めて主張する点がある。というのも、ヴァギナの姿を歪めてきた原因には、キリスト教イデオロギーや男性優位主義の価値観など社会的・文化的な影響を無視できず、不純・不貞だと疎んじられたり蔑まれたり、男性をものさしとして女性を測ってきたがゆえに女性器の研究が蔑(ないがし)ろにされ、阻害されてきたという経緯があるらしい(とくに19世紀後半から20世紀にかけてヒドかったよう―ちょうどフロイトの時代と被るのは偶然ではないかも)。そのため、ヴァギナの研究は現在、端緒が切られたばかりだという。手がかりは掴めてきたものの、クリトリスや女性の前立腺の構造や機能、オーガズムの役割はまだまだ謎に満ちている。

 科学は文化や社会全体の感情、ものの見方から独立した客観的なものでは決してない。ある科学理論を理解するためにはそれを生み出した文化にも目を向ける必要があるということである―これは肝に銘じておくべきことだ(もほや決して目新しい指摘というわけではないのでなおさら)。

 ヴァギナの構造や機能、ひいてはオーガズムの役割などを研究・解明してゆくうえでは、本書でもしばしば参考にされるように、人間以外の有性生殖をする動物の研究もまた大きな援けとなるようだ―ヴァギナはもちろん、有性生殖をする動物に共通する生殖器官だから。現在のところこの手の研究は、哺乳類と昆虫でだいぶ進んでいるらしい。ところで、裏を返せば、本書での対象は「動物」に限られている。一度だけ、植物学者リンネの「植物と結婚の比喩」について言及されているけれど、象徴や香りについてはともかく、生殖という意味においてはここ以外で植物に言及されることはなかった。有性生殖という視点から捉えれば植物も範疇に入ると考えてみると、ヴァギナ(というかペニスも含む生殖器)やオーガズムの機能・役割を本当の意味で解明するには、植物にも着目すべきかもしれない。

恋する植物―花の進化と愛情生活

恋する植物―花の進化と愛情生活

 この本を読むと、ただ歩いているだけでそのへんの草花に目が誘われるようになって愉快である。などとさておき、副題にあるように、前半は植物の「進化」を藻類→コケ植物→シダ植物→…というように誕生したとされる順に顕花植物が現れるまで段階的に追ってゆく。後半は「愛情生活」に焦点が当てられてゆく。

 本書で違和感を感じるか、問題視されるかするとしたら、「愛情生活」という表現からも窺えるように、著者ペルト氏の擬人法と、その多用だろう。たしかに、ちょっと使いすぎなのではと思えるきらいはあるし、一部のひとからは「擬人主義・人間中心的なものの見方」が批判されているらしい。が、これはどうやら、ただの擬人法じゃない。説明をわかりやすく・理解よくするための便宜上の手段というより、擬人法といえば擬人法なのだが本当のところは、人間が植物に喩えられている。動物の生殖器やオーガズムの機能・役割を知るに、こういういわば「擬緑法」的視点を導入するのも一興ではないかと思う。

 ペルト氏によると、花をつける植物においても、たとえば花粉が雌しべにつけばただちに自家受粉できるかというと実はそうではないという―タイプのちがう花同士が受粉できるようにする働きがある。一方『ヴァギナ』によると、この器官もただの精子の通り道、ないし受け皿ではない。受身ではない。交尾と受精が分離していることを思い合わせてみればよい―なぜ、1回の交尾で確実に受精できないのだろうか。ブラックリッジ氏によると構造が明らかになるにつれ、ヴァギナは幾重にも工夫や障壁を凝らして精子を消化したり、貯蔵したり、破壊したり、排出したりしながら、もっとも適した(自分のDNAと補完的な)精子を選別しているらしいことが窺えてきたのだという。


 ところで、「性」という字の部首はりっしんべん、「心」である。「心」と「生」が合わさって「性」という字になる。
 
 性と死はしばしば対になって現れるという。表裏一体の、エロスとタナトス…ここで、死生観と呼ばれるものを念頭に置きたい。有体に言って、生まれ変わりがあるとか、あの世があると(極楽や地獄がある)と信じるか、あるいは死んだらそれまで、あとは無だと考えるか。いずれにしても死や死後についての見方・受け止め方によってその人の生き方が変わってくるとするならば―人生の終わりには等しく死があるけれど、死は生の反対を指しているわけではない、では人生の始まりには…? 性がある。と言えないこともない。おれ思うに、性に対する見方・受け止め方によってもその人の生き方(あるいは、ものの見方)はそれと知らずに奥底で規定されているのではないかと―「性生観」とでも呼べるものもあるんじゃないだろうか。

 一旦大きく出てみよう。日本はポルノ大国だとよく耳にする。実態は、あるいは諸外国と比べてどうなのかはよく知らないけれど、当たらずも遠からずだとする。これは性に開放的・肯定的だからだろうか?というと、ちがうように思う。むしろ逆で、公私に関係なく、あるいは男女間で、どこか性をタブー視(ないし軽視)しているところがあるように思える。大人であっても、性について、本当のところは無知だったりよくわかっていなかったりする。ポルノとエロスのちがいはなにかと、考えたことはあるだろうか…本能による性欲というよりも、無知の裏返しとしての性欲がポルノを量産しているのではないかとちょっと疑う。

 あるいは、子は親の影響を受ける。もちろん性の面でも。早婚の親の子は早婚になりがちだったり、DVする親の子はする/される傾向が大きいという。過度に性にナイーブだったり避けるような家庭で育った子は恋愛が下手になる傾向にあるのではないかと、周りの友人たちを見ているとなんとなく思ったりもする(彼氏・彼女ができないというだけでなく、長続きしないという意味においても)。とくに恋愛では、その人―“自分”が否応なくしゃしゃり出てくるものである。性の捉え方はパートナーとの関わり方を左右していると思う。未婚率や離婚率の増加にも無関係ではないんじゃないか…などと。

 『ヴァギナ』の後半が印象深かった理由のひとつは、たとえば、女性器の「愛液」「スープ」や性的快感に関する考察がだいぶ説得力をもって展開されていたから。なぜ、それらが必要なのか。ヴァギナも口や鼻と同様、外部に開かれている器官である。相手を気持ちよくさせる、気持ちよくセックスする重要性が生理学的に考察されていたことは、味気ないように思う人もいるかもしれないけれど、男のおれとしては興味深かった―子どもをつくるためにも、病気に感染させない/しないためにも、まず大事なことなのだ。

保健体育のおさらい 性教育 (おとなの楽習)

保健体育のおさらい 性教育 (おとなの楽習)

 『ヴァギナ』と併せて読みたい1冊。「答え」を提示するというよりも「問いかけ」のあるこの本は、男女の性の違いから、セックス、妊娠・出産、産後の夫婦関係、性による経済(経費)、病気やその予防等々と、一人ひとりが広く“性”というものを捉えなおす援けになると思う。「おとなの楽習」はよいシリーズだと思っていたけれど、性教育と呼ばれる分野でも1冊出してみせたことは賞賛に値するのでは(ちなみに、おれの言う性生観は、この本の第2章「性の内政・外交」と題された項にとくに関係する事柄かもしれない)。

 フロイトと同時代の精神分析学者ヴィルヘルム・ライヒは以下の言を残した―「生命とセックスを否定する態度で育てられた人は、快楽を得ることに不安を持ち、その不安が生理的には筋肉の痙攣として現れる(中略)それは、独立した、自由をめざす生き方を恐れる気持ちの核心にあるものなのである」。ブラックリッジ氏は、最後に、「快楽原理」という項を設けて「脳の主観性」に触れる。

人はみな、快感を得てそれを楽しむ無限の能力を持って生まれてくる。生殖器からの快感だけでなく、ほかの場所からの快感も同じである。しかし、人が性的快感(あるいはあらゆる種類の快感)にどのように反応するかは、身体が受ける物理的なプロセスと、そのプロセスが何を表しているのかという完全に主観的な知覚とは交じり合ったものによってきまることがしだいにわかってきた。

 脳は強力な性器だという(おそらく、もっとも強力な)。ある人が性的快感をどう知覚するかは、興奮やオーガズムが血流に送りこむ化学物質と同時に、過去の経験やその人が属する社会の通念や規範、価値観にも左右される。そして―ここがポイントだが―脳は、化学物質が示す本来の信号・作用を無視することができる。たとえ快感や官能を得られる(得るべき)ときであっても、苦痛にしたり不感にしたりと、打ち消してしまったりといった「不全」を起こしてしまう。

 「ヴァギナ大全」とも呼べる本書に詰めこまれてた大量の情報や知見の大波で洗われたのは、ヴァギナ観というよりも、もっと底のところにあるものだったように思う。



<『恋する植物―花の進化と愛情生活』は「人力検索はてな」にて、id:Hyperion64さんに教えていただきました。あらためて、この場で感謝申し上げます。ありがとうございました。>

第4回:『貨幣論』岩井克人

 お金はなんで、お金なの?

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

 ダーウィンが進化を確信するにビーグル号航海が大きな影響を与えたことは有名な話だが、進化の理論を形作るうえで彼に影響を与えた本としてはまた、ライエルの『地質学原理』も有名だ。そして、この本と並んでもう1冊ある。マルサスの『人口論』である。経済の本からも無視できない示唆を受けたのだという。はじめてこのことを知ったときは、地質学はともかく、経済学と生物学という一見するとほとんど無縁に思える組み合わせに意外の感があったものの、『貨幣論』を読んでみて、『人口論』を読んだときにダーウィンの内で起こった作用、ないし閃きの感覚が―おこがましいけれど―ちょっとわかったような気がした。

 本書は、マルクスの『資本論』をはじめとする著作群、ひいては彼の論理(装置)をたたき台に、思考実験をはじめ、終始、抽象的な話が展開されてゆく。ただし急いで付言すると、抽象的とはこの本の場合、哲学的で難解という意味ではなく、議論がとてもシンプルと言ったほうが正しい。人体で言えば、筋肉や内臓器官はひとまず無視して(あるいは踏み込まず)骨にのみ焦点が絞られているという感じ。『さおだけ屋はなぜつぶれないのか?』とか『スタバではグランデを買え』といったベストセラー本なんかには手え出したことあるけどね…という程度の、要は経済学方面に疎いおれでも思いのほか支障なく読めた。おもしろく読んだ。

 ところで、誰でも一度は疑問に思ったことがあるはずだ。たとえば万札―「なんでこんな紙切れに1万円なんて価値があるんだ?」というふうに。「お金じゃ幸せは買えないんだ!」「お金がなんぼのもんじゃい!」と息巻き、破ってやるぜと指をかけ、いざ、と気合を入れても…躊躇せずにはいられない。なんの抵抗もなく破り捨てられる豪傑はそうそういないだろう。

 ヤマザキマリのマンガ『テルマエ・ロマエ』にはこんな場面がある*1古代ローマから現代日本の温泉街にタイムスリップした主人公ルシウスは、ラーメン屋でお代を払う段になって、手持ちの日本円のどれがどれだけの価値を表すのか皆目わからないことに気づく。ちょっと考えたあと、「黄金の輝きと中心に穴を空けた手の込んだ作り…これは相当に価値ある通貨と見た!」とドヤ顔、5円玉を店主に渡そうとしたのだった(ちなみにラーメンは700円だった)。実は彼の手元には千円札もあったのだが、紙幣を知らないルシウスはお札には目もくれなかった…うん、紙幣がお金であることの不思議に加えて、「なんで紙幣のほうが、硬貨よりも価値が高いんだ?」という謎もある。というか世の中、さらに不可解なことに、電子マネーというもほや手で触ることさえできなければ、ただの数字にしか見えない、実態のない貨幣まであるじゃないか…まこと、貨幣とは不思議面妖な存在である。


第一章 価値形態論
第二章 交換過程論
第三章 貨幣系譜論
第四章 恐慌論
第五章 危機論

 「お金はなんで、お金なの?」なんて、まるで子どもの疑問のごとく単純素朴な問いかけだ。しかし、いざ答えるとなると、これがかなり難しい。というより「実のところ、よくわからない…」という人も少なくないのではないか。

 本書『貨幣論』の第一章〜第三章かけての前半部ではこの、子供のような疑問を巡る議論が展開されてゆくと言っていい。ひいては「貨幣はなぜ、どんどん非モノ化してゆくのか」という点も導き出され、また、第四章・第五章にかけて「貨幣の流動性」や「時間軸」の導入などによるなかなか鮮やかな展開を見せる後半部では、前半部の議論を基にひとつの結論に至る。すなわち、資本主義社会にとって本当にヤバいのは「恐慌ではない。ハイパーインフレーションだ」―なぜならば、ハイパーインフレという現象は「貨幣が貨幣でなくなってしまう」という資本主義社会にとって根本的な危険を孕んでいるためだ…

 と、この結論、ないし理屈は理解できた。反面、ごく個人的な感覚としては前々からそうなのだけど、「ハイパーインフレが実際に起こりうる」という点に現実味をもてない。感覚的に理解しがたい。物心ついた頃からずっと「基本、不況ですねえ」という景気模様のなかで育ってきたためだろうか…理解の援けとなるような良いアナロジーはないものだろうかと、思案する。ところで逆に、本書内で引用されていたケインズの言には膝を打った。やや長いけれど孫引き。

われわれの生きている経済の顕著な特徴のひとつは、たとえ生産や雇用にかんしてはげしい変動にみまわれることがあっても、それは破壊的なほど不安定ではないということである。事実、それは回復への傾向も完全なる崩壊への傾向も見せることなく、かなりの期間にわたって正常以下の水準で活動し続けることができるように見える。さらにまた、完全雇用、いや近似的な意味での完全雇用ですら稀にしかおこらず、しかも短命に終わってしまうと信ずべき根拠がある。変動は唐突に始まるかもしれないが、極端な状態に到達する前に自然にその勢いを失ってしまうように見える。絶望する理由も満足する理由もないような中途半端な状態こそ、われわれの経済に割り当てられた通常の運命なのであろう。

不況だろうと好況だろうと、ごく個々人にとっては景気など言うほど深い意味など持たないし、根本的な影響も実は与えないだろうとおれは思う。もし個々人の人生なり価値観なりに大きな影響を与えるとしたら、個人的なお金の量―お金持ちか貧乏か、のほうではないかと。ただ、そういう個人視点に立ってみても、実感としてはきっと、「正常以下の水準」とか「絶望する理由も満足する理由もないような中途半端な状態」等々と感じる人が大方なのではないだろうかと思う。


 さて、『貨幣論』を読むなかいろいろと連想が働いたのは、マルクスを下敷きにしているがために必然的に伏流水となる「マルクスと労働価値論の関係」、ないしそれ関連の件(くだり)だった。この本の主題は興味があれば実際に手に取ったほうが理解によいと思うので、以下はこの伏流に沿ってゆこうかと思う。言い換えると、『貨幣論』という骨に、連想という名の脂肪をつけてゆきます。

 まず、マルクスにとっての労働価値論のあり方が、なにやらアインシュタインにとっての神に似通ったものがあると思えた―「神はサイコロ遊びなどしない」という発言に端的に現れているように、アインシュタインは神の存在を信じ、崇敬していた。しかし、そのために、のちに「生涯最大の失敗」とアインシュタイン自身が告白することになる、とある“穴”を作ってしまうことにもなった。

 アインシュタインは、彼自身の導き出した宇宙方程式―これによると「宇宙は膨張したり収縮したり」することになる―に困惑した。「神が創った宇宙は永遠不変なはずなのに…」と悩んだ挙句、根拠不明の「宇宙項(宇宙斥力)」という“穴”を自ら導入してむりやり潰れない宇宙を提案した(しかし今度は、星から放出される廃熱が溜まることでこの宇宙もいずれ熱死してしまうという展開になってしまい、アインシュタインのジレンマは終わらなかった)。結局、まもなく、大型望遠鏡によるハッブルの観察・研究から「ほとんどの銀河が遠ざかっている」「銀河の遠ざかる速さは距離に比例する」ということ「ハッブルの法則」が明らかとなる。ただ、アインシュタインの偉いところは、これを受けて潔く間違いを認めたことで、宇宙項は削除されるに至った。ちなみに、このハッブルの法則、宇宙項がなければ宇宙方程式でちゃんと予言・説明できるものだったという。

 『貨幣論』において展開されるのはまったくの新しい論理というわけじゃない。岩井氏曰く、「(マルクスが)半分も使い切らないうちにあわただしく打ち切ってしまった」というマルクスが編み出した論理装置をきちんと作動させたにすぎないのだという―『貨幣論』の内容・主張とはつまるところ、マルクスが避けたと思しき、しかし彼の価値形態論から必然的に導かれる“循環論法”を正面から推し進めることで得られるものなのだと。この点がまるでアインシュタインの宇宙方程式みたいで、マルクスが自身の価値形態論から導かれてしまう循環論法に陥らないために設けた“穴”は、おそらく、労働価値論のためだった。ではなぜ、“穴”を掘り抜いておく必要があったのだろうか?…この循環論法が他でもない、労働価値論をひっくり返し、無効化してしまうためだ。
 
 天才2人、人間臭さを感じさせる共通点があったものである。とはいえ、マルクスの場合、時代の制約や当時の社会的な要請といった切実さを思い合わせてみると、この“穴”、たぶん、単に「逃げ道」と言うにはちょっとちがっただろうとも窺われる。19・20世紀に労働価値論、ひいては社会主義が大きなうねりとなったのは言うまでもなく、産業革命にはじまる急速な機械化・大規模化による劣悪な労働条件や搾取が凄まじかったからだ。また、サン=シモンやフーリエオーウェルたちの思想を「空想的社会主義」と呼び、マルクスエンゲルスは自分たちのそれを「科学的社会主義」と宣したものだが、いわゆるマルクス主義の背景には古典派経済学、唯物史観、それから弁証法があった。とくに弁証法に着目してみると、彼らの目に循環論法は、「論理の陥穽」「詭弁」みたいに映っていたかと思える。

 マルクスが設けた“穴”の通じる先は、金鉱山だった。アダム・スミスリカードなど古典派経済学が「発見」しマルクスが受け継いだ労働価値論とは、「ものの価値とはその生産に社会的に必要となる労働時間によって規定される」「労働の量によって計られる」という「価値法則」のことだが、マルクスは、商品世界ないし資本主義社会において要(かなめ)となる貨幣の価値、というか貨幣の元となる金の価値は、その生産源である金鉱山で働いている労働者たちによって担われていると主張したのだった。

 実は『貨幣論』を読むまでおれは、マルクスの労働価値論にとって金鉱山がこんなふうに切っても切り離せない要素だとはとんと知らなかった。けれど、これを知ったおかげで、数年前に観た映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』のとあるシーンにちょっとした合点を見た。

この映画は、エルネスト―のちに“チェ・ゲバラ”の愛称で知られることになる青年―が、友人のグラナードと共にバイクに跨り南米大陸を縦断するという実際にあった話(エルネストの日記)を原作に作られたロードムービーである。この旅がなければエルネストは、もしかしたら“チェ・ゲバラ”になっていなかったかもしれない…というくらいターニングポイント的な旅だったよう。この機に再鑑賞した。愛車「ポデローサ」が鉄のかたまりになってしまい徒歩で旅を続けることになるあたりから、それまでの陽気さが影を潜めはじめ、2人の旅の様子が変わってゆく。

 チリはアタカマ砂漠を縦断している途上で2人は、土地を追い出され、鉱山に職を求めて旅する夫婦に出会う。夫婦はごく普通の人だが共産主義者であり、そのため仕事がうまく見つからず、鉱山を目指しているのは主義思想を問われないからだという。2人は夫婦と共にとある鉱山に行き着く。そして、非道な鉱山の「現場」を目の当たりにしたエルネストは、現場監督者らしき男に向かって「みんな喉が渇いているんだ、水くらいやれよ!」と思わず噛みつく。しかし男は取りつく島なく、かつ居丈高であり、労働者を積んだトラックでさっさと出てゆこうとする。それを見てエルネストは、「くそったれ!」とトラックに石を投げつけるくらいしかできない。

 このように明らかに象徴的なシーンなわけであって、しかも映画製作者たちを含めおれたちは、カストロと共にキューバ革命を起こし、ボリビアの山ん中でCIAに殺されたという後のエルネストの行く末を知っている。ために、このシーンになんとも言えず悲哀を感じることになる。そして今回、「場所が鉱山」というのが実は他に変えられないポイントであり、鉱山であることによる意味合い・含みを知ることになったのだった。たとえば、共産主義国家の親分株たる「ソ連の崩壊」といった歴史へと観客の意識をカットバックさせるシーンでもあったのだろうと。

 チェ・ゲバラを感化し、あるいは共産主義国家に“化けて”しまった労働価値論は歴史的に失敗したように見え、『貨幣論』においてはマルクスにしたがいながら、マルクスを越えて、マルクスを読み直」すことによって、無効化されてしまうことになる。そして、岩井氏が提示してみせた循環論法というのは「貨幣の起源(貨幣の貨幣たる根拠)」を宙ぶらりんにしてしまい、しかも宙に浮いているからこそ「貨幣は貨幣になる」という構造になっているのだが、「貨幣の起源」についてはアリストテレス以来1000年間、2つの「創世紀」が争われてきたのだという。「貨幣商品説」と「貨幣法制説」である。

 貨幣商品説とは、「貨幣とはそれ自体が価値をもつ商品を起源とし、ひとびとのあいだの交換活動のなかから自然発生的に一般的な等価物あるいは一般的な交換手段へと転化した」という主張。一方で貨幣法制説とは、「貨幣とはそれ自体が商品としての価値をもつ必要はなく、申し合わせや勅令、社会契約、立法にその起源をもとめることができる」という主張だ。マルクスは、そう、労働価値論という点からわかるように、貨幣商品説に立っていたわけである。

 岩井氏はレヴィ・ストロースの「(神話の目的とは)矛盾を克服してしまうための論理的なモデルを提供することである」という言葉を引き合いに出しつつ、2つの説はこの意味での「神話」にほかならない(不毛な論争だ、いくら議論を闘わせたところで本当のことなどわかりっこない)と断じる。真に重要なのは貨幣が「ある」か「ない」かなのであって、さらには、循環論法にあっては始原に起きたはずの「奇跡」と同様の「小さな奇跡」が実は、毎日毎日起きているのだという―

貨幣が今まで貨幣として使われたときという事実によって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくことが期待され、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくというこの期待によって、貨幣がじっさいに今ここで現実に貨幣として使われる。(中略)貨幣ははじめから貨幣であるのではない。貨幣は貨幣になるのである。すなわち、(過去をとりあえずの根拠にした)無限の未来まで貨幣であるというひとびとの期待を媒介として、今まで貨幣であった貨幣が日々あらたに貨幣となるのである。(※カッコはおれ)

 2つの「創世紀」のどちらが正しいのかと固執することには個人的にもあまり意味はないように思うし、循環論法の説明にもとくに異論はない。このような循環労論法による見解はむしろ、しっくりくるものがある。
 
 とはいえ、同時に素朴に思ったことは、商品説と法制説を「神話」と言うならば、循環論法も立派な「神話」ではないか…?と。岩井氏は神話、ないしレヴィ・ストロースの発言を誤解したわけではないだろうと窺えるものの、「神話」を一面的に見ているような気がする。

 「循環論法」とは、(著者も述べているように)図式的には「円環構造」である。この「円環」というのは「創世紀」と同じくらい―ウロボロスの蛇やメビウスの輪とかあるように―神話ではおなじみの構造、ないしモチーフだ。あるいは、「循環」を運動として見てみれば「反復」ということになるけれども、この点についてもまた、宗教学者ミルチャ・エリアーデ「歴史時間の特徴は二度と反復されない点にあるのに対して、神話的な時間はつねに反復されるところに特徴がある」と述べていたりする。*2上の引用部からもわかるように「貨幣は反復の産物だ」と言っても間違いではないだろう。

 だから、循環論法も「神話にすぎない」と言える。ただ、仮にいま触れたような意味で神話的に裏を返せば、循環論法だからとただちに却下するのはちがう、というか、循環論法は決して詭弁でも論理の落とし穴でもないということにもなりうる(岩井氏の循環論法の受け取りかたはむしろこっち)。「出口がない」こと、それが「出口」になる。みたいな(あるいは生物学を援用すれば、岩井氏の言う「貨幣の循環論法」は、進化で言う「赤の女王仮説」に似通っているものがあるかも)。

 さておき、循環論法を受け止めてみたとき、マルクスの労働価値論はマルクスの言うような意味をもたないものになってしまい、また、資本主義にとって本当の危機となるのは恐慌ではハイパーインフレということになるのだった。というわけで戻ってきたので、最後に、ハイパーインフレについての思案の続きを。


 上述したように社会規模でのそれは個人的にわかりにくいものがある。しかし、いわば「ひとりハイパーインフレーション」というふうに考えてみると、ちょっとわかりよくなるような気がする…たとえば、日本史の教科書か図録かで見たことあると思うけれど、明治期のページに「(たしか芸姑さんのために)成金がロウソク代わりにお札に火をつけて灯りをとってあげるの図」というのがあった。成金のように人生の中途からお金持ちになったような人は、金銭感覚がおかしくなる、とよく言われる。もしくは、そう見えると。これはつまるところ、彼・彼女個人において「貨幣があってないようなものになる」ハイパーインフレ的現象が起きているからかもしれない。
 
 はたまた、べつにお金持ちに限らずごくごく普通の人にも、錯覚的に「ひとりハイパーインフレーション」は起こりうるものだろう。その恐さを描き出した見事なミステリ小説がある―などともったいぶる必要のないほどよく知られた小説で、宮部みゆきの『火車』だ。

火車 (新潮文庫)

火車 (新潮文庫)

 「謎を解く鍵は、カード会社の犠牲ともいうべき自己破産者の凄惨な人生に隠されていた」という惹句にあるように、「クレジットカードによる自己破産」つまり、「ひとりハイパーインフレによる人生崩壊」がこの小説で描かれていた(と記憶する)。そう、「(硬貨や紙幣のようには)目や手で現物を確認することのできない、ただの数字としてしか認識することができない」電子マネーには、錯覚を起こしかねない。個人的なこと言えば、浪費癖の気味のあるおれは、電子マネーに対してどこか「いくら使っても減らない」ような感覚がある(別の言い方をすれば、お金を使った気があまりしない)ようだから、基本的には使用を控えている。
 
 『火車』読んだの高校生のときであって、細部はもちろん、記憶をちょっと探ってみたところ筋もいい具合に忘れているので、この機に再読しようかしら。


*1:第3巻・第13話

*2:ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』「解説」における、木村榮一氏の言

これからの「世界史のOS」の話をしよう 『新しい世界史へ』

 世界史は生まれ変わらなければならない―「世界はひとつ」であって、端的に言えば、「地球主義の考え方に基づく地球市民のための世界史」へ。「地球社会の世界史」へ。

 「分有から共有へ」「独自性(ないし相違)よりも共通性(相関性・連関性)に着目する」という転換がいま、必要とされている。

 ということでこの本の主張は、とても明快だ。あるいは「地球市民コスモポリタン)」「世界はひとつ」という言葉はたぶん若い世代になるほど、それほど突飛な印象を受けるものではないように思う。なんとなく「当たり前じゃん」と、壮大というよりセンチというか、逆に口にするにはちょっと恥ずかさを覚えるかもしれない・・・しかし、著者の羽田正はあえて明快に、かつ、このような言葉を用いている。この本は「このままではまずい」「とにかく、声を上げておこう」という想いから書かれた「中間報告書のようなもの」だという。

 一方で著者・羽田氏の筆運びは、けっこう慎重である。というのも、問われている事柄・内容はけっこうナイーブなものなのだ―ひとつ、単純化に陥っては元も子もないため。ひとつ、「中間報告書」すなわち現在ただいま検討中であるため。そしてひとつ、おれ思うに、この本がもし中国で公刊されようものならただちに検閲に引っかかり、発禁処分になるのではないか・・・?つまり、見方によっては著者の主張は過激とも映る。

 真摯な中間報告書だった。主張と同様、論点も明確に示されており、目次を読めば、本書ではどういう点が着目され、どのように議論が展開してゆくのか、おおよそのところは掴めるかと思うので引用しちゃう(カッコ内はおれが付けた補足です)。そのあとはよしなし事をいくつかポンポンポンと並べてゆきながら、本書のもう少し具体的な内容についても、必要があるときにその都度触れてゆきます。

序章 歴史の力 (なぜ「新しい世界史」が必要なのか?)

第一章 世界史の歴史をたどる

  1. 現代日本の世界史
  2. 戦前日本の歴史認識
  3. 世界史の誕生
  4. 日本国民の世界史

第二章 いまの世界史のどこが問題か?

  1. それぞれの世界史 (いまの世界史は、決して一般的・普遍的―万国共通のものではない)
  2. 現状を追認する世界史 (いまの世界史は、自と他の区別や違いを強調する)
  3. ヨーロッパ中心史観 (いまの世界史は、ヨーロッパ中心史観から自由ではない)

第三章 新しい世界史への道

  1. 新しい世界史の魅力 (読み始めに、序章に加えてここを読むとよいかも)
  2. ヨーロッパ中心史観を越える
  3. 他の中心史観も越える (「イスラーム世界」や中国史観、自国史などについて)
  4. 中心と周縁 (中心はいらない/周縁という視点も行き過ぎると中心化に陥りやすい)
  5. 関係性と相関性の発見

第四章 新しい世界史の構想(あくまで著者個人の草案)

  1. 新しい世界史のために
  2. 三つの方法 (以下の「3」「4」「5」がそれ)
  3. 世界の見取り図を描く
  4. 時系列史にこだわらない
  5. 横につなぐ歴史を意識する
  6. 新しい解釈へ (科学やナショナリズムなどをどのように扱うべきだろうか?)

終章 近代知の刷新

 
 本書の主張はPCに喩えると、いままでの世界史のOSではこれから先、対応できない(というより害をなす)。アプリケーションではなく、OSを変えなければならない―ということである。

 読後すぐに思ったのは、「新しい世界史」の実現化は口で言うほど容易くないということ。てか激むずだと思う。というのも、この本で議論されているのは要は、「ものの見方・捉え方」であるのであって、一筋縄ではいかない問題と言える。しかし逆に、歴史学に限定されないもっと広範に通じるという意味で、この本は、たとえ世界史に興味がなくても一読してみる価値はあると思う。

 さておき―現在出版計画が進行中の『ミネルヴァ世界史叢書』なるものを、おれは首をながーくして待っています!(「あとがき」を読むに、この『新しい世界史へ』で述べられている発想や構想を種に編集される感じだろうと思われるからであって―つまり、おもしろそうなのだ)。


 ※ 以下、「本書」とある場合は『新しい世界史へ』のこと。


歴史観(認識)を左右するは教科書というより、学習指導要綱

 「興味がなければ第一章は飛ばしてもらって構わない」と羽田氏は断っているものの、ここもちゃんと読んでおいたほうがよいと思う。ちなみに第一章「世界史の歴史をたどる」の内容は「現代日本における世界史理解の概略とその成立の経緯の確認」である。

 この項のタイトルにした点がひとつ、ポイントである。この章を読むことで学習指導要綱の内容がどのように変わってきたのか、また社会との影響関係がどうな感じだったのかが概観できる―「世界の見方と世界史の理解が表裏一体となって、私たちの世界認識を強く規定しているのである」

 ところで章末では、『日本国民の世界史』という本に触れられる。これは1960年に当時の教科書検定で不合格となったため一般向けとして岩波書店から出版されたものだった―実のところ、これまでの学習指導要綱の内容の変化がちょうど、この本の主張を徐々に取り込んでゆく格好になっているのである。一般にけっこう読まれたようで、どうやら日本人や社会にかなり影響を与えてきたのではないかと。

 おれ思うに、目まぐるしく変化したと言われる戦後にあっても上の1冊の影響が行き渡るのに50年という時間を要したことを省みて、たぶん、羽田氏は切迫感とはべつに、だいぶ長い目のもとにこの『新しい世界史へ』(あるいは『ミネルヴァ世界史叢書』か、なんにしても)という一石を投じておくべきだと考えたのだろう。 


グローバルか、ローカルか

 著者はべつに自国史を否定しているわけではない。現時点ではやはりまだまだ必要なものだろうし、ひとが自分の祖先や属す社会・土地の過去を(ルーツを)知りたいと思うのはごく自然な欲求だろう―けれども、それとはべつに、「世界史」は「新しい世界史」へと変わってゆく必要がある。と説いているのである。

 第二章「いまの世界史のどこが問題か?」において、問題点が3つ挙げられる(目次参照)。それらを踏まえたうえで、第三章で示される新しい世界史のポイントは「中心史観からの脱却」と「共通性・関連性の重視」の2点にあると言う―第二章の3点のうち個人的にもっとも重要だと思う指摘は、いまの世界史は「自と他の区別や違いを強調する」という点である。

 著者曰く、相違や独自性を強調・主張しすぎるあまり国際紛争や歴史問題、難民問題等々が絶えないという面があると言う―言い換えると、世界に見られる多様性を「豊かさ」と見るのではなく、「優劣」や「損得」をつけるための「相違や独自性を強調」になっている面が多すぎる、ということだろう。

 そういう不毛な争いを減らしてゆくためにも、現代は(これからは)、「同じ地球上に生きている」つまり「地球市民」という意識を涵養する、「国境や民族に囚われないところの大きな“自分”」を思い描く援けとなる歴史が必要だと、羽田氏は訴える―たとえば、明治維新において主として活躍したのは西南雄藩ではあるものの、日本人はそれを「自分たちの歴史」と捉えることができるように。
 
 手前味噌で恐縮なのですが、個人的にも以前、1年ほど前にあった先の大震災における都知事の「天罰発言」を受けてかなりちかい話題を書いたことがあった→「その日本を内から見るか外から見るか」―このエントリーは要は、「マクロ(グローバル)に見るか」「ミクロ(ローカル)に見るか」という話なのだけど、どちらの視点が正しいか間違っているか、良いか悪いか、ということではない。

 ついでにおもしろかったので、問題点の一例として、第二章の2「それぞれの世界史」を紹介しておこう。フランスと中国、それぞれの歴史の教科書の目次を参照しつつ「日本人の学んでいる世界史は一般的でも普遍的でもない」ことが示されるのだけど・・・ホント、目次を一読しただけでそのちがいは一目瞭然なのだ!

 そもそもフランスの場合は、自国史と世界史で分けられておらず単純に「歴史」という教科のようだが、おそらく、おれたちが「日本史」を学ぶようにして「世界史」を学んでいる(自国史がほぼまんま世界史になっちゃう感じ)。逆に中国の場合は、日本と同じように自国史と世界史に分かれているものの、世界史の目次のはじめのほうを眺めて驚きなことには、古代文明になんと「黄河文明」の項目がないのだ。中国では自国が関わる事柄はすべて自国史に割り振られ、世界史のほうではあたかも中国が存在しないかのように叙述されているらしい。

 この2つの例だけを見ても、日本人の学ぶ「世界史」が実は、あくまで「日本人にとっての世界史」だということがよくわかる。

ヨーロッパ中心史観

 本書でたびたび言及されるのが「ヨーロッパ中心史観問題」。この点、最近はわりと相対化されたと言えるかもしれない。しかし決して、払拭されたわけではない。たとえば、砂糖とか茶とかチョコレートといった「モノ」を扱った世界史モノもその実、ヨーロッパ中心史観を相対化させると共にそれから逃れられてはいないのだという―いままでの世界史はいわば、概念としての「ヨーロッパ」を中心にした叙述がなされてきたようなものだが、「モノの世界史」は往々にしてその世界史を前提にして展開しているためだ。

 そう、「ヨーロッパ」とは、概念的な言葉だと言える。概念としての「ヨーロッパ(西洋・欧米)」の意味内容はつまり、「進歩・民主主義・自由・平等・科学・普遍」等々あらゆる「正の価値」を表していることが多い。だから、「ヨーロッパ」と言ったときには必ずしも、地理的空間的な意味ではないのである。

 日本史における江戸時代以降の「西洋」を考えるとわかりやすいかもしれない。江戸時代、「西洋」とはオランダに等しかった。しかし、明治維新前後にオランダはそれほどじゃない(というか遅れている)とわかるやイギリスやフランス、ドイツを指すようになり、戦後になるとアメリカに移った。概念としての「西洋」は一貫しているように思えるが、地理的空間的には同一ではなかった。

 そして問題は、この、概念としての「ヨーロッパ」を基準に歴史を測り続けているということ。

 読みはじめのときは正直、ちょっとこだわりすぎでない?と思ったけれど読み進めてゆくうちに、これはおれの思う以上に根深く、むずかしい問題だと感じるようになった。それと米原万里の言っていた「外国語を学ぶと必ず患う」という「外国文化絶対化病」を思い出した*1―ある外国語を学ぶと、その外国語か母語を絶対化してしまうという話で(ふつう外国語が絶対化されることが多い)、「英語のほうが明快であいまいさがなく優れている」とか「日本語はこんなに豊かだ、すごいのだ」とか―羽田氏も「ヨーロッパ」という(実は)絶対化されている基準で「自と他を区別し、強調する」ことに危惧し、警鐘を鳴らしているのだろう。

 ただ同時に、第3章「3:他の中心史観を越える」あたりを鑑みるに問題は、「ヨーロッパ」という概念とはまたべつに、「中心」のもつイメージないし概念にもあるのではないかと、思ったのだった。この点はべつに項を設けて後述します。

 ところで、おれはここ1・2年ほどのあいだ、名づけて「アメリカ(ないし英語)忌避症」を患っている。症例―たとえば映画を観るとき、アメリカ製(あるいは、音声が英語)というだけで観る気が萎えてしまい、外国文学に手を出すときには、アメリカ文学というだけで伸びかけた食指が縮む(とくにジャンル的にはSF―これは外国を見た場合、英米文学とほぼ同義)・・・名画座にでも行かないかぎり洋画といえばほぼハリウッドしか上映してないし、翻訳モノとその情報もなんか英語圏からのものが圧倒的な量のよう―と、見渡すとアメリカモノばっか目に付くということもあって、アメリカないし英語モノにおれは倦んでいる。一方で、いつも思う。これは多分に偏見でもあって、この点にこだわっているために素晴らしきものまでもスルーしてしまっているのでは・・・?損しているのでは・・・?

 この、「アメリカ(ないし英語モノ)忌避症」とは実際のところ、概念的としての「ヨーロッパ」に対する反発の一形態なのかもしれない。

 ちなみに、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』についても本書では、「読み物としておもしろいだけでなく、新たな歴史叙述の可能性を開いた」と絶賛様に触れられるのだけど、一点だけ、大きな欠点があるという―ダイアモンド氏が概念としての「ヨーロッパ」を無批判に用いてしまっている点である。気づかなかった。再読するおりにはこの点にも気をつけて読んでみようと思う。


東インド会社とアジアの海』―「モノの世界史」と「海域世界」

 著者の羽田正という人をおれは、不憫にして知らなかった。と思っていたら以前この人の著作を1冊だけ読んだことがあると、裏表紙にある著者の略歴を見て判明した。しかもそれは(内容に関する記憶はあいまいだけど)読んだときの感触はいまでも強く残っている本だった。

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

 読んだのは大学入学直後だったように思う。もともとおれは世界史が好きだったものだけど、しかし時代が下るにつれ、とくに近代以降はおもしろ味が薄れてゆき、世界史というわりに視野が狭まって、同時に、面倒くさくなってゆくなあと。なぜなら、ほとんど「ヨーロッパの政治史」しか扱われていないと言ってよいから。しかもやたら細かい。反対に中南米や東南アジアとなるともはや、ないに等しい。この点もつまらかなった。

 『東インド会社とアジアの海』という本はタイトルにあるように、東インド会社(1つではない)の沿革や活動を追いつつ、また、舞台はアジアの海(ここにはアラビアや紅海も入る)である。ここに描かれていた歴史は高校世界史とは様相を異にするものだった。端的に言うと、高校世界史にあるさまざまな項目と項目との狭間が(そこにあるものが)浮き上がってゆき、つながり、あるいは、人物名で動く歴史ではなく―要は、「知っていた」はずの歴史の姿ががらりと変わった。おもしろかった。

 本書、第三章「新しい世界史へ」では、これまでにすでに試みられてきた「新しい世界史」に向けての取り組みについて、どこが有効でどこか問題なのかが論じられている。そして「5:関係性と相関性の発見」で触れられる「モノの世界史」と「海域世界」に対する考察は、この『東インド会社とアジアの海』を執筆したことで得たところも多分にあるのだろう。東インド会社とは言ってしまえば「モノ」、アジアの海は「海域世界」に当たり―羽田氏は、「読者として」だけのそれだけでなく、「執筆者として」の自らの経験・反省も踏まえたせたうえで2つの叙述方法の長所や可能性、あるいは留意点を導き出していると思われる。

 『ミネルヴァ世界史叢書』なるものにおれが期待を寄せるのは、『東インド会社とアジアの海』で得た感触も記憶にあったからである。ああいう読書体験ができるのなら、それはもう、よろこんで!


「中心」のイメージと、人体的比喩

 たぶんヨーロッパ中心史観(ないし他の中心史観)、ひいては「中心と周縁」(この周縁には、男性に対する女性とか、国民に対するサバルタンなども含まれる)という構図は、「自と他の区別」がある閾値を越えたり、何かバイアスがかかったようなときに生じる。みたいなものだろうと思う。羽田氏の「中心はいらない」とか「共通性・関連性の重視」という主張におれも概ね同意なのだけど、何かを中心(ないし軸)に据えることでものごとの理解がよくなることも多々ある。
 
 おれ思うに、「中心のイメージを変える」というのは、どうかしら。

 「中心」と聞くと、なんとなく「点」とか「(1本の)線」というイメージがある・・・これを人体に喩えると、脳が中心、みたいな。ひとまず脳を「ヨーロッパ」として続けると、それを相対化するために「イスラーム世界」が右脳として現れ、「ヨーロッパ」は左脳とされる。一方で心臓たる「中国」が中心だと言いはじめ、と思ったら、左心房(左心室)たる「日本」がしゃしゃり出てきて「中国」を右心房(右心室)に追いやる。あるいは、脊髄たる「モンゴル」も声を上げ・・・

 というように、「自と他を区別」して「相違や独自性を強調する」と基本的に、分裂と細分化が進む。その傾向が行き過ぎた挙句、器官たちがそれぞれ対立してしまい血液止めたり、変なホルモン流したりなどお互いにお互いを妨害しはじめたら、人体はうまく機能しなくなる。ひどいと、死ぬ(諸共に)。これが羽田氏の言う、いままでの世界史、もしくは中心のイメージが示す危険性だと言って間違ってはいないだろうと思う。

 「共通性・関連性の重視」という点を鑑みるに、このイメージはやっぱり、そぐわない。では「新しい世界史」にあえて中心を設けるとしたらどんなんだろう?―身体中を隅から隅まで巡っている、血管ではないかと思う。血管のどこか、ではなく、血管そのもの(血管全体)が中心。血管の様相が示しているのは「人体はひとつ」であり、ひいては、「新しい世界史」のこの血管的イメージの中心観が示すのは、「世界はひとつ」だと。*2

 もしくは、細胞。偏在する中心というか。

 ちなみに、耳学問なのだが哲学方面で言うと、この中心のイメージは「フーコー的権力観」にちかいものがあるのかもしれない―「フーコー的権力観」とは「権力の中心を認めず、むしろ社会的な関係の中に権力を見出すという考え方」なのだと、國分功一郎が言っておった。


歴史のフィクション性

 最後にひとつ。歴史はノンフィクションなのか。あるいは、どこまで信用できるのだろうか。

 序章の冒頭で、羽田氏は言う―「歴史には力がある」と。「歴史には、確かに現実を変え、人々に未来を指し示す力がある」と。

 ―現在、歴史学には元気がない。人々に未来を指し示しているようには思えない。むしろ、第二章の2のタイトルのごとく「現状を追認している」。しかし一方で、『三国志』とか『戦国BASARA』のようなゲームが売れたり「歴女」と呼ばれる女性たちが話題になったりすることから、歴史に対する関心が一般人のあいだで萎んだわけではないようだ・・・ではなぜ、歴史学に元気はないのだろう?それには様々な理由が考えられるものの、もっとも大きな原因は「一般の人々が求める歴史像と歴史研究者が生み出す研究成果の間に、無視できないずれが生じているということではないだろうか」―言い換えると、いまの歴史学は「時代にふさわしい過去の見方を提示できていない」と。

 以上のように著者は、「新しい世界史」の必要性について、その出発点を述べていた。

 しかし一般人的な方面から、もう1つべつの点も再考したほうがよいと思う―歴史に力があったときと、いまとでは、歴史の受け取り方に大きなちがいがある。端的に言うと歴史は、少し前まではいわば「ノンフィクション」と捉えられていたかもしれないけれど、いまはむしろ、「ある種のフィクション」と受け止められているように思う。

 実際、著者自身もこの点に触れる見解を述べてはいる。でも、どうも「当たり前のこと」「もはや問題ではないこと」のように語っている。たとえば第4章の5では、「歴史の描き方は、過去を解釈し理解する人の立場によって異なる」と。あるいは、序章から抜粋。

よく言われるように、歴史は、現代に生きる私たちによる過去への問いかけである。自分たちの生きる今を理解し、これから進むべき方向を定めるために、私たちは歴史を必要とする。当然、過去への問いかけもそのときどきで変わってくるはずだ。どういう観点から過去を見るか、過去の何を重要だと捉えるかは、個人や人間集団によって、また時代によって異なる。過去の解釈や理解は、決して普遍ではないし、ただ一通りしかないわけではない。

 おれ思うに、この「(歴史は)決して普遍ではないし、ただ一通りしかないわけではない」という認識こそ、従来の歴史学に元気がなくなった原因ではないかと。本書で言及される「歴史学に元気があったときの例」は、歴史というものに一般人がまだほとんど疑いを挟まなかったときというか、少なくとも「客観的だ」と信じられていた時代の話ではないだろうか。

 いまは、事情がちがう。なぜゲームやドラマ、小説、マンガなどの歴史モノはいまでもユーザーや視聴者、読者を得ることができるのかといえばたぶん、「フィクション」「解釈」だとはじめからわかったうえで接することができるためでもある。「これは、どこまで嘘か本当か」などと余計な神経を使わなくて済み、距離感も掴みやすい。けれど、教科書や歴史学者の書いた歴史の本はというと「これが事実だ」という体で示されるようなもので、反面、こちらは「ここに書かれていることは、嘘か本当か」「何か恣意性があるのではないか」と頭のどこかで斟酌・警戒してしまう。歴史の場合はとくに、タイムマシンなどないから確認できないし、実験もできない、つまり実証できない。これは他人の記憶や思い出に対して「脚色(誇張もしくは矮小化)されているんじゃないの?」とときに、一歩引いて耳傾ける感覚と同じである。

 つまり「歴史の変容性」を、歴史学者(ひいては知識人と呼ばれる人々)は「解釈」という言葉で考えるのかもしれないけれど、一般人的にはむしろ、それが「操作」だと映るところがあると思う。あるいはきっと、「歴史解釈」という言葉自体に「え?」と思う人もいるかもしれない。「歴史って、解釈なんてものが入る余地のない過去の事実、ではなかったのか・・・?」「てか“史実”ってどういう意味なの?」みたいに。

 大きなズレがあるのは、「一般の人々の求める歴史像」と「歴史研究者が生み出す研究成果」とのあいだだけではなく、「歴史というものに対する認識そのもの」のあいだにこそあるのではないだろうかと、思った。


地球市民ならぬ

 はてなダイアリー市民になった。



新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)

新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)

*1:米原万里の愛の法則』参照

*2:ただ、このイメージとしての「血管の様相」は実際のところ、流動的だし不定形なものであって、また幾重にもレイヤーが重なり合うものと捉えるべきものだろうと思う。